かもめ日報

日報とありますが不定期更新です。

ここ最近思うこと(2013年1月中旬)

ここ最近思うことをなかなかうまくまとめられなくて、というのは書くとただの愚痴っぽい記事になってしまいそうでいやだなーと思い書かないでいたんですが。あるブログを読んであーけっこう同じ状況のように見える(だけでしょうけど)人もいるんだなーと思ってこの記事を書こうと思った次第です。まあ個人的なことで他の方にとってはたぶんあまりたいしたことではないかもしれませんけども。

 

というのは、みなさんそれぞれ将来への不安というのをお持ちなんだと思いますが、ある年代以上の(といってもちょっとあいまいで申し訳ないのですが)少なくとも経済的不安の無くなった(ように見えるだけかもしれませんが)方々のブログなり書籍なりを読んでおりますと、非常に示唆に富んだ良いようなことを書かれている、ええそれは間違いないんだと思いますが、その割には達観でもないが何かこう変に落ち着いていたりする傾向が強いなあというのを見て、なんだかいやだなーと思っておりました。

 

ところがそうではない若い世代(あまり本当は世代でわけるのは好きではないのですが)と言われる方々のブログなどを読んでおりましたら、同じく将来への不安や恐怖をどこかで潜めつつも、ギスギスしたものがない余裕のある記事を書いていたり、変にきれいに整っていない記事、けっこう時間をかけて自分で書いたんだろうなあという記事を読んでますと精神衛生上こちらのほうが良いなあと思ったりしました。

 

それで、この差はなんだろうと考えていたのですが、極端かもしれませんが世代間の死への恐怖、不安への差なのではないだろうかと思ったわけです。あるいは単なる寂しさを埋めるためなのかもしれませんが。死というものは誰にいつ来てもおかしくはないのですが、ただ実際のところある年代以上になると経済的不安が無くなっても死というものはもう避け難いところまできてしまうのも事実でそういった不安があるんだろうと思われます(それはそれで思いやれよと言われるかもしれませんがまあその辺りは別の機会にでも)。若い世代の死はそれとはちょっと違って食えないと死んでしまうという不安にある人のほうが多いわけでして、人間はこの後者の「食えないと死んでしまう」状態に置かれているほうが見てて生き生きとしているんではないだろうかと感じました。あまりにひどい「食えないと死んでしまう」という状態はもちろん良くありませんけども。

 

でも、やっぱり偉大だなあと思う方の本などを読んでおりましたら、70歳を超えてもまだまだ自分は学ばなければならないといった一文を書いておられるのを見て、世代で分けるのは間違いだなと思ったわけですが。

 

「自殺の9割は他殺である」上野正彦 を読んで

この本の序章にはこういう文が記されており、

 

『一般の方は「法医学とは犯罪捜査のための医学である」というふうに思い込まれているふしがある。

しかし、法医学の役割というのは、決してそれだけではない。法医学は犯罪捜査の医学であると同時に、同じような事故が二度と起こらないようにする「予防医学」であり、またそれを広く社会に訴えかけている人に役立たせる「社会医学」でもあるのだ。』

 

なるほどなあと思いつつ読んでいたのですが、その後の内容は「いじめられっこの自殺」や「社会に殺された人々」、「老人の自殺」などに触れるものの特に真新しく感じるものはなく、これまでにどこかで見聞きしたような内容でさらっと最後まで読んでしまいました。全てがとまでは言いませんが、恐らくこれまでの著作物、あるいはメディア等で何度も言及されてきた内容なのではないでしょうか。

それで読み終わった後何とも言えない読後感がありまして、何なんだろうと考えていたのですが、この本の「終章」の「法医学者の考える死」に

 

『私は死ぬときも、やはり自然に死ぬべきであり、自殺のように自らの意思で死を選ぶのは不当であると考えている。<略> 運命に身を任せて人生をまっとうすべきである。』

 

と書かれてあり、これだけ死を目の当たりにしてこられたお方がなぜこんなことをおっしゃるのだろうと不思議に思ってしまいました。「自然に死ぬべき」というのは自殺以外の死でということなのでしょうか。自殺は不自然というのはなんだかおかしいような気がしました。(自殺を選んで欲しくないという気持ちからなんだと思われますが、それにしても浅はかなお考えのような気がします)

それでまた、なぜこんなことをお書きになったのか考えてみたのですが、著者の上野さんの経歴を見る限りですと、これまで数多くの「死体」と向き合ってこられたようですが、「死」、あるいは「死の瞬間」と向き合ってこられなかったからではないだろうかという考えに至ったわけです。そういったものごとを目の当たりにしてこられたのであればまた意見も違ったのではないだろうかと想像しました。

 

そして、「終章」最後のほうに

 

『私も80歳を超え、死について考えることもある。』

 

この年代のお方のこういった文章を見てしまうともう何も言えないなあと思うわけです。

 

しかしながら、30年もの長い間監察医をお務めになるというのは恐らく私には到底真似できるものではなく、私には想像し難い「死体」とも向き合ってこられたのだろうなあということについては、それはもうすごいものを感じずにはいられないわけです。

 

自殺の9割は他殺である 2万体の死体を検死した監察医の最後の提言

自殺の9割は他殺である 2万体の死体を検死した監察医の最後の提言

 

実名主義に潜む罠

まず最初に本記事で何が言いたいかと申しますと、ブログでもエッセイでも何でも良いんですが、インターネットだけではなく新聞の記事や書籍等も例え実名を出して書かれていたとしても、本人が書いているという保証などはどこにもないということです。

 

(そういえば、本人が書いているということを保証する方法ってあるんでしょうか。あるいはわざわざ保証して書いている人はいるんでしょうか。ご存知の方がいらっしゃいましたらご教示願いたいです。)

 

まあゴーストライターなんていう言葉が広く世に知れ渡っているぐらいですから、そんなこと自明なことではあるんですが。

 

しかしながら、実名主義を重んじている人ほど。わざわざそんなこと強く言っている人ほどちょっと疑ったほうがいいんじゃないだろうかと思いました。

 

こういったことを書くと前記事を読まれた方は「勝間和代のクロストーク - 毎日jp(毎日新聞)」のことを書いているのかと思われるかもしれません。誤解の無いように言っておきますが、「勝間和代のクロストーク」は

 

勝間和代さん本人が書いているものではない」

 

ということが言いたいのではなく、

 

勝間和代さんの代わりに誰かが書いていても分からない」

 

と言うことです。例え文章の最後に署名していようとも。本人の承諾の上で掲載しているのは確かなのでしょうが。(でも、『安部公房の「天使」を読みながら思ったこと - かもめ日報』でも書いたように本人の承諾なしの場合も十分あるわけですが)

 

それで、こういったことがあった場合に誰が損をするのかといいますと、読者なのかなあと思いきや実名で書いている本人なんだろうなあと思います。と言いますのも、(勝間和代さんを例に出して大変申し訳ないのですが)勝間和代さんよりも読者を獲得できるなあという人が現れた場合に、例えば最近人気がある方で言いますと池上彰さんでしょうか。(こちらもまた池上彰さんを例に出して大変申し訳ないのですが)「池上彰のクロストーク」なんていう企画に取って代わられる可能性も十分あるんじゃないでしょうか。そういったことは承知の上なのかもしれませんが、読んでいるものとしては悲しいものがあるわけです。

 

とまあいろいろと書きましたが、こういうことを書いている人ってあまりいないように思ったので本記事を書いてみました。

 

以前、デキビジで放送された勝間和代さんと西村博之さんの対談が話題になっていましたが、

 

デキビジ 勝間和代 VS ひろゆき を文字におこしてみる - さかなの目

 

インターネットだけではありませんが、「匿名で書かれるのを防ぐ」ということと、「実名を出してその本人以外の誰かが書くということを防ぐ」ということは同じぐらい難しいことなのではないだろうかと思いました。 

 

本記事を読まれた方で何か意見等がある方は、どうぞコメントにでも何か残していただけると幸いです。

 

「勝間和代のクロストーク:feat.瀧波ユカリ/98 男女共同参画、進めるには」を読んで

 勝間和代さんが毎日新聞社の新聞、ホームページで掲載している「勝間和代のクロストーク」というのを初めてだと思いますが拝読させていただきました。今回のお題は「男女共同参画、進めるには」というものでした。

 

勝間和代のクロストーク:feat.瀧波ユカリ/98 男女共同参画、進めるには- 毎日jp(毎日新聞)

 

なるほどな〜と思いつつ、でも勝間さんが世に訴えてもあまり世の中への影響力は小さいんじゃないだろうかと思いながら読んでおりました。なぜなら勝間さんは「女性の社会参加」を果たしてしまった人だから。社会参加不参加の間には壁のようなものがあるように思えまして(本当は曖昧な壁、もしくは存在しない壁なのかもしれませんが)、その壁を越えてみないと分からないからです。勝間さんが「女性の社会参加」を世に訴える一番の方法は、勝間さん自身が一度「女性の社会不参加」の状態(というのも曖昧ではありますが)になっていただいてもう一度「女性の社会参加」を果たしてそれをドキュメンタリー映画などにするのが一番効果的なんじゃないかなと思いました。もしくはこれから「女性の社会参加」を果たそうとしている人を探してドキュメンタリー映画などにする。

ただ、一番重要なことに思えるのですが、女性が社会参加することでその女性は幸福になれるのでしょうか。勝間さんは幸せを感じておられる(んだと思いますが)、だから他の女性にも当てはまるなんていう保証などないわけです。

 

『北陸3県のように「女性の出世」を評価する社会風土を作るには何が必要なのか』

 

とのことですが、世の中の女性のみなさんは「女性の出世」を本当に望む傾向にあるんでしょうか。私がこれまでに出会ってきた女性というと限られてしまいますが、そういう社会風土を望んでいるような人はかなり少なかったように思います。

 

また、このようにも書かれておりますが、

 

『そもそもなぜ、日本で指導的地位にいる女性がこんなに少ないのでしょうか。そのことが税収不足や成長力不足を招いているにもかかわらず、なぜ是正されないのでしょうか。』

 

これは本当にそうなんでしょうか。本当にそうなんだとしても視野が狭いように感じました。

 

以上が今回の「勝間和代のクロストーク」を読んで思ったことなのですが。最後にちょっと気になったことがありまして、この記事は勝間和代さんが書いているのでしょうか。4コマ漫画は瀧波ユカリさんという方が(『臨死!!江古田ちゃん』は楽しく読ませていただきました)描かれているのだと思います。しかしながら、この記事の文末には「(経済評論家)」と書いてあるだけです。これは誰なんでしょうか。もしもの話ですが、これが勝間さんではなく別の方が書いてあるとしたら。勝間和代さんのおっしゃっている実名主義を逆手に取っているように思えてなりません(実名主義についての勝間さんの考えはこちら)。勝間和代さんが書かれているのであれば、もう少し明確に書いたほうが良いのではと思いました。

(私の勘違いでしたら大変申し訳ありません。)

 

殺人における完全犯罪は可能か

完全犯罪というのはWikipediaによると以下のようなことらしいです。

 

完全犯罪 - Wikipedia

 

-------- 引用ここから -------- 

完全犯罪という語は、一般的に以下に挙げる条件の、一部または全てを満たす場合に使用される。

  • 犯行が露見しない
  • 被害者が見つからない
  • 加害者が判明しない
  • 証拠が見つからない
  • トリック(犯行の手法)が見破られない
  • 法的に裁かれない(法の目をすり抜ける…など)
  • 加害者が捕まらない(時効まで逃げ切る、捜査範囲外に逃亡する、天寿をまっとうする…など)

犯罪者にとっては

  • 時効が成立する。
  • 裁判で無罪判決が確定する。
  • 全くの別人が犯人として有罪判決が確定する(冤罪)。

-------- 引用ここまで --------

 

こういう条件を満たす殺人ってちょっと視点を変えてみるとけっこうあるんじゃないのかと思ったのでちょっと書いてみたいと思います。

 

例えば、加害者(A氏とする)と被害者(B氏とする)の二人しか存在しない状況を作って犯行に及ぶ場合。A氏の犯行が露見しないようにするのは割と簡単に思えます。どこかに呼び出したり、追いかけて一人になるところを狙えば良さそう。ただ、証拠が見つからないようにしたり、法的に裁かれないようにするのは難しそうです。一般的に。

 

でも、ちょっと視点を変えてA氏とB氏の「二人だけの世界」で見ますと。A氏がB氏を殺してしまうとA氏しか存在しなくなるので、完全犯罪の条件を満たすことになります。何を言っているんだと思われる方もおられると思いますのでもう一度言いますが、この「二人だけの世界」においての話です。また、このB氏の視点から見ますと、ここから先は想像でしかないのですが、証拠を見つけて誰かに訴えかけたりできないわけです。たぶん。というような視点から見ますと、殺人における完全犯罪というのは可能なように見えるわけです。

 

と、まあ書いてみましたが、そんなの当たり前じゃないかと思われたりするのかもしれません。また、全ての殺人事件に当てはまるとも思いません。でも、殺人を犯す心理にはこの「二人だけの世界」から「一人だけの世界」にしたい、あるいは一人を排除したいという強い力が働くからというのもあるのではないかと想像します。(誤解の無いように言っておきますが、私は殺人を犯したこともありませんし、今後も犯したいなどということもありません)

 

しかしながら、ここに重要な落度があるように思えまして、A氏は「二人だけの世界」から「一人だけの世界」にしたものの、A氏自身はまだその世界に残っており、かつA氏自身だけが何が起きたかを完全に知っている。記憶から消さない限り。という面から見た場合、殺人における完全犯罪というのはやはり不可能なようにも見えるわけです。「二人だけの世界」だけでなく世界の誰よりもA氏自身が知っているわけなので。

 

ただやはりというか、こういう状況からでも、いやこういう状況だからこそかもしれません、「完全犯罪」を成し遂げたいという方もおられるようで。こういう状況ですので殺人における完全犯罪というのは可能不可能というよりも防ぎようがないことのように思えたりするわけです。

 

子育てについて 「iPhoneと使用契約書の記事」を読んで思ったこと

13歳の息子へ、新しいiPhoneと使用契約書です。愛を込めて。母より(Hana.bi) - BLOGOS(ブロゴス)

 

こちらの記事がちょっとした話題となっているようで、

 

はてな匿名ダイアリー - iPhoneの使用契約書の記事を読んで感動する人は親になる資格などない。

 

このような記事が書かれていたりしてます。

 

私の意見としてはこの「はてな匿名ダイアリー」に書かれている内容とちょっと違いますが、方向性としては似ているものがありそうです。しかしながら、「子どもを作るなよ」とまでは言いませんが、子ども目線で見ると先々苦労するんだろうなと思います。そして、本人自身その苦労の原因が何か分からなかったりするんだろうなと思います。

 

私はこういうなんらかの制限(抑圧とも言うんでしょうか)を受けて育った知り合いに何人か会ってきましたが、その後そういった制限や育った環境が原因となって何らかのコンプレックスとなっている場合が多いように思います。しかしながら、そのコンプレックスをバネにして特殊な仕事に就いていたりしてうらやましく思えたりしていた時もありましたが、全員がうまくいっているわけでもなく、またこちら側から見ると上手くいっていたりうらやましく思えるように見えて、本人としては原因の分からない苦しみを抱えていたりするケースもあるのではないかと思っています。

 

こういう苦しんでいるように見える人たちを見てきますと、やはり「iPhone使用契約書を書いた母」の子育て感覚は子どものためというよりは母自身のためのように思えます。また今回のケースは母となっていますが父の場合もありそうです。そしてここが重要に思えるところですが、実はこの母自身もこのような育てられ方をしてきた、もしくは人生の途中で何らかのトラブルがありそのことが影響しているのではと想像してしまいます。

 

そういった中で、「間違った子育て」(教育でもいいかもしれませんが)というのは恐らく単純に定義できるようなことではないように思います。理由として例えば現代の日本では子どもを「殺人を行う者」に育てるというのは99.99%「間違った子育て」となるのでしょうが、国や時代が変われば間違いではなくなったりするのは想像できるかと思います。(誤解の無いように言っておきますが、私も大体の方と同じように基本的に殺人はしてはいけない行為だと思っています。)

 

「正しい子育て」なんて言うのもあるのでしょうか。極端ですが例えば、「プロ野球選手にさせる」なんていうのを定義されてしまうと、ほとんどの子どもが「間違った子育て」を受けてきたということになってしまいます。ここまで極端じゃなくても「良い大学に入って良い会社に入る」なんていうのも「正しい子育て」とは言い難いものがあります。結局のところ「正しい子育て」なんて言われているものは大体が単なる親の期待だったりコンプレックスを押し付けているだけだったりするんじゃないだろうかと思ってしまいます。

 

「正しい子育て」だったかどうかは、結局のところその子どもが成長して大人になって亡くなるまで分からないのではないかと思います。でも、亡くなってみても「正しい」とか「間違った」ではなく、大体の人が「間違っていなかった子育て」というところに落ち着きそうな気がします。

 

ただまあ、「正しい子育て」があるとすれば。私が思うに、道を踏み外さないように優しく見守ってあげる。例え道を踏み外しても見守ってあげる。ただその子の命が危険な目にあうようなときには手を差し伸べてあげる。そういったことぐらいしかできないもの、あるいはそういったことで十分なものなのではないだろうかと思っています。

 

平成24年大晦日

このブログが始まったのは、2012年の10月。3ヶ月しか経っておりませんが、その間にこのブログを通して色々な出会いがあり、色々な経験もしました。出会いは出会いなんですが、一方的に「こう思うんですがどうですかね?」ということを色々な方々にやっていたように思います。で、今振り返ってみると私自身としては決して悪くない経験だったように感じます。(お相手の方にはご迷惑だったかもしれませんが... すみません)

ですので、来年は私自身も良い経験となり、お相手となる方にも悪くない刺激のようなものを与えていけたらいいんじゃないだろうかと考えております。生きていく上で良い経験や良い刺激、あるいは気分的にいいということは重要なことだと思っておりますので。

 

今年も多くの方々に本当にお世話になりました。皆様来年もどうぞよろしくお願いいたします。それでは良いお年をお迎えください。